今更こんな事を改めて言うのもおかしい話だが、
生きている事が、
どうしても、
罪悪に思えてしかたがない。
呼吸をすること、深呼吸すること、
食べること、笑うこと、怒ること、
眠ること、泣くこと、喋ること、
水を飲むこと、薬を飲むこと、
お風呂に入ること、生きる総てが、
「してはいけないこと」と、思える。
けれど、死ぬことに勝る罪悪はない。
私が望まなくとも、私が死ねば、誰かが泣く。
母親は自責するだろう。
姉や兄も、姪も、皆が、哀しんでくれるであろう。
18年前に先だった父親も、来てくれるな、と、拒むだろう。
このblogを読んだ人も、
何人かは嘲笑い、何人かが泣いてくれるであろうか。
「自分で自分を殺める」ことが、どれだけの自己中心的行動か、
私は、知っている。
だから、死なない。
だから、生きている。
精神科病棟入院中、同室の友人が、手首を切った。
その事実を知らされはしなかったけれど、
看護士達の様子と会話から、リストカットをしたことは明らかだった。
初めて知った、
目の前で刃物を手首につきつける姿を見せられてきた母親の気持ちを。
漂白剤の飲む娘の姿を見せられた母親の気持ちを。
・・・泣くしかなかった。
死ぬことも罪で、生きることも罪ならば、どうすればいいのか。
・・・泣くしかなかった。
雨の中、病院敷地内の陰で、泣くしか、なかった。
いつか嫁ぐその日まで、母親に泣き顔は見せまい、と、心に誓った。
いつか先立つ母を看取るまで、生きようと、心に誓った。
でも、つらい。
生きている事は本当に罪悪の塊だ。
「喜怒哀楽があるということは、
生きているということ、それはとても幸せなことだよね」
と、13歳の少女は言う。
そんな彼女に、こんな事を言ったら、きっと、哀しませる。
ごめんなさい。
私の免罪符は何処にいった?
それを見つけるまでは、死ぬことはないだろう。
そして、免罪符を見つけたらば、私は、それを心に縫い付け、
道の真ん中を歩こうと思う。
偏見の目でみられようと、私は大声で、
「アンパマンマーチ」を歌いながら、歩いてやる。
右手には、愛という名の生涯の伴侶の手を握り、
左手には、希望という名の、まだ見ぬ我が子の手を握り、
大手を振って、歩いてやる。


